連載小説 山﨑邸奇譚

                                日下 草一

  ~山﨑邸を舞台に繰り広げられる日常のちょこっと不思議な物語~

 

 

『雨声』 第一章

 

 降りしきる雨の中、傘を差した恵子は山﨑邸の門を潜り、創cafeの玄関へと向かう。

 傘を畳むと、玄関脇に置かれている壺に傘を入れた。

 廊下を通り、カフェスペースに足を踏み入れる。

 ふと、正面のカウンター席に座る客の後ろ姿が恋人の背中と重なった。

 

「透――」

 

 思わず声を出したところで口を手でふさぐ。

 振り返ったのはロイド眼鏡の中年男であり、恋人とは似ても似つかなかった。

「すみません……」

 恵子はロイド眼鏡の男に頭を下げる。

「ふむ、人違いでしたか。一体誰と間違われたか興味がありますなぁ」

 そう言って隣の空いた椅子をポンポンと叩く。

「どうでしょう。これも何かの縁。ご一緒に珈琲でも」

 見ず知らずの中年男に親しげに話しかけられ、恵子は戸惑った。

 だが、なぜだか否定的な気持ちは沸き起こらない。

 男を見ていると初対面なのにどこか親しみがあり、そういう部分が恋人のように思えたのかと  納得した。

「それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 促されるままに男の隣に腰掛ける。

 普段は人見知りな方なのに、こんなにも気楽に居られるなんて……。

 透もそうだったと思い出が蘇る。

 すると今日一日、かつてのデートコースを巡って蓄積していた涙が頬を伝った。

 男は驚いたように目を見開いたが、すぐ和やかに微笑むと静かに頷いた。

 まるで好きなだけ泣きなさいとでも言われたかのように恵子の目から涙がこぼれ出す。

 

 

    透。どうして私を置いて逝ってしまったの…?

 

『雨声』  第二章

 

 やっぱりあなたが居ないと雨の日は憂鬱でしかないわ。

 本気に泣き出すのはなんとかこらえ、取り出したハンカチで目頭を押さえた。

「センセ……」

「えっ?」

「私のことはセンセとでも呼んでください。文士なんぞをやっております」

「わ、私は皆川恵子です」

 ちょうどそこへ、様子をうかがっていたYさんに注文を聞かれる。

「ここはおごらせてください。泣いた女性に払わせるのは忍びない」

「で、でも……」

 いいからいいからとセンセは珈琲を二つ注文した。

「ありがとうございます」

 恵子は頭を下げたあと、改めてセンセを直視する。

 ロイド眼鏡と、だぶだぶズボンの三つ揃えスーツに蝶ネクタイを着こなしていた。

 カウンターテーブルには山高帽子も置かれている。

 一昔前のポスターから抜け出して来たような風体はユーモラスで安心感を覚えた。

「ところで透さんというのはあなたの恋人ですね」

「はい……、恋人でした」

 センセは腕を組むと、ふむと言って顎に手を添える。

「過去形ということはもう存在しない。そう、もうすでに亡くなられていますな」

 

 

    「どうしてそれを……」

 

 『雨声』  第三章

 

 恵子は驚きの表情を浮かべた。

 

「恵子さんは私の背中を見間違えました。大抵面影を重ねるのは死んだ人間に限られます。それに女性というものは、別れた場合すぐに吹っ切れるものだと思いましたので。引きずっているのなら、亡くなられていると推理したのです」

「センセはミステリー小説を書いておられるのですか?」

 それを聞いたセンセは、「あ、いや」と照れたように頬を掻いた。

 

「もっぱら幻想小説ばかりです」

「それでも鋭い観察眼をお持ちなのですね」

「まぁ、人間観察は物書きの基本ですから」

 そこへ珈琲が届き、二人はしばし口を休める。

 

「今も」

 

 センセはコーヒーカップをソーサーに乗せた。

「透さんのことが忘れないのですな」

「はい……」

 恵子は悲しげに表情を曇らせる。

「いや、すみません。不躾なことばかり言って」

「大丈夫です……」

 ふと、センセが掛け時計に目をやった。

「恵子さん、まだお時間はあられるでしょうか?」

「あ、はい」

 それではとセンセが立ち上がる。

 

 

       「ご一緒に山﨑邸を見学しませんか?」

 

 『雨声』  第四章


 見学と言いつつも、センセが向かったのは二階だった。
 階段を登った先でも、目的地が決まっていたかのように、左に折れ、その先の和室に入る。
 続いて恵子も入ると、センセは天井を見上げていた。
 釣られて恵子も顔を上げると、思わず声が漏れる。
 天井には、傘の裏側のような細工が施されていたのだ。
「これは傘天井と言うものですが、このように竿縁まで傘の骨のように放射状になっているのは珍しいものらしいです」
「素敵ですね……」


「そうですか、透さんは雨がお好きでしたか」


「はっ?」
 唐突な言葉に恵子はセンセの顔を見た。


「だから雨女のあなたにも寛容だった。そしてあなたも雨が好きになれた」


「ど、どうしてそれを……」
 センセは唇に人差し指をあてがうと、耳を澄ませる仕草をした。
「あなたの恋人が、透さんが教えてくれました」
 恵子が訝しげに眉を潜めたその時、


――俺は雨は嫌いじゃないよ。
――命の源に満たされているようだからね。


「と、透の声!?」
 恵子は驚き、周囲を見渡す。
 するとセンセがこっちですよと、人差し指で天井を示した。
 再び傘天井を見上げる恵子。


――だから雨女なんて気にすんな。


「天井から……透の声がする……」
 恵子は茫然と傘天井を見上げ、また涙をこぼした。
「透さんの声が降って来ているのです。ここでしばらくの間、心の雨宿りをするといい」
 恵子はその場に座り込むと、天井を見上げたまま、亡き恋人の声に耳を傾ける。
 それは今まで、恵子が聞かされた恋人の言葉に他ならなかった。


 懐かしく、心に染み入る言葉のしずく。


 それが目に見えない天井の上部で弾け、音色を奏でていた。
 どのくらい恋人の声を聞き続けていたのか。
 恵子は肩に置かれたセンセの手で我に返った。
「カフェの閉店時間です」
「……センセ、これは一体」
 涙を拭いながら、恵子が立ち上がる。
「珈琲の作用です。珈琲は標高が高いほど良質な珈琲が収穫出来ると言われている、まさに天上世界からもたらされる嗜好品です。ブレンドの配合によって変わりますが、珈琲には神の力が宿っているのです」
 そしてポケットから一粒の珈琲豆を取り出して見せた。
「さっき飲んだ珈琲には、アマートルという豆を忍ばせていました。それで時空に干渉し、天界との回線を開いたのです」
「もう、彼の声を聞くことは出来ないのでしょうか?」
 センセにすがるような目を向ける。
「珈琲豆の力を借りなくても、あなたなら透さんの声を聞くことが出来るはずです」
「でも実際に聞くのとはまた違います」
「雨はいつか止むもの。神の力とは言えいずれ尽きてしまいます。雨好きの透さんでも、いつまでも泣き続けているあなたのことを知ったらきっと悲しみますよ」
 恵子がうなだれると、畳に染みを作った。
 しかし次に顔を上げたときにはもう涙は失せ、晴れ晴れと引き締まっていた。
「そうですね。透の言葉を聞いていて思い出しました。雨のあとには虹が出るってことを。だから涙雨にも希望があると」
 センセは穏やかな眼差しで頷いた。

 恵子が山崎邸を出ると雨はもう止んでいた。
 そして上空には見事な虹が架かっている。

 恵子はそれに向かって大きく頷くと、未来へと一歩踏み出した。


(了)

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